ほんのちょっと当事者
ほんのちょっと当事者という本を読んだ。
わたしはそっち側じゃない!
わたしも人を遠ざけた経験がある
なんて、差別する側にも、◯◯者として「 」にくくられる側にもたったことを著者の青山ゆみこさんが書いているエッセイだ。
ここで書かれている感情は、どちらも、わたしにも記憶がある。
結婚が遅かったので「未婚者」であることにモヤモヤして、そっち側じゃない!と思っていた時期があった。勝ち負けじゃないのに、勝手に敗者のラベリングを自分に貼っていた。今考えると、弱くみられたくない、ということだったのかもと思う。
もちろん、差別した経験も数知れず。
差別しまいとするあまり、変に友好な態度をとってしまうことすらあった。でも、これについては、付き合っていた頃のうちの夫から、「人の好き嫌いってあっていいと思うよ。障害があったからといって、好きにならなきゃいけないわけじゃないし。」と言われたことでハッと気づき、無事軌道修正したけれど。
最近、どうも、
あの集団の考えは古いから、
ダイバーシティとかSDGSとか(のカタカナ語のリベラルな考え方)男性の育児参加とか(これは漢字w)わかってないよね、
という内容にカチンときてしまう。
リベラルな考え方自体に共感はできるのだけど、「 」で相手をくくって、自分が少し上に立って、外野からヤジを飛ばしてるだけじゃないかということを思うのだ。たぶん、過去の自分も上から目線がちだったから、隣の芝がよりとんがって見えてしまうのだろうと思う。
ああ、めんどくさい。
こんな考えをしてしまう自分はとてもめんどくさい。
どこまでいっても、自分もちょっとばかし当事者であることからは逃げられない。
子育てはもちろん、介護も、家族も、まったく人ごとじゃない。
だとすれば、自分の周りのところを少しずつ耕していくしかないのだと思う。
↓
こちらの青山さんの文章もいい。人生はどかんと落ちてくる。
出会いは、そう、突然に
First Jyoshi is forever
あなたと出会った頃のように
季節が変わっても
きっと色褪せないはずだよ
「出逢った頃のように」jyoshi編
ちょっと歌ってみたくなったのは、
Jyoshi
について語りたくなったから。
上司ではない、女子でもない、助詞。
自分が一番はじめに使った助詞が何か、記憶にある人はいるのだろうか。
「ねえねえ、はじめに使った助詞って覚えてる?」
なんて聞いたことがないから知らないだけで、ひょっとしたら身近にいるかもしれないけれど、少なくとも私は覚えていない。
なんでこんな小面倒臭いことを考え始めたかというと、
息子氏が
「**くんも」
といきなり言い出したからだ。
「も」なんて教えてないぞ。
さ、さてはこども園か(いやいや、私もビール一口とオットに言ってるのを真似されたか)
彼は、
「**くんの」
もいきなり言い出した。
おとーちゃんの、おかーちゃんの、**くんの。こちらは「も」に比べてやややわらかに言葉を使う。「も」が新幹線級のはっきりとした意思表示だとすれば、「の」は準急くらい。
そして、今のところ使うのは、所有の「の」のみ。
これが、他の「の」になると面白いんだけどなぁ。森の本とか、本の森とか、、(おっと脱線)
「が」が登場するのはいつなのか、次の助詞はなんなのか。
子どものことばは、ほんっとオモシロイ。
も、といえばこれ。
育休中にやりたいこと・・・のその後
「育休中にやりたいこと」というのを書いた。
やりたいことは大きく分けると3つ。
- 新しいことにチャレンジする
- 知らない世界に出会う
- ここまでの棚卸し&マスト事項(割れたケータイを変えるなど)の実行
今見ると、こんなことを考えてたのか!と驚くものもたくさん。
分析してみると、いつかやってみたいことにはなかなか食指が動かないもので、
ファッションをなんとかしたいとか、
料理のレパートリー増やすとか、
押入れの整理とかは、
だめ、ぶっぶー。(最近の息子氏の口癖)
この項目、私はどこまでいっても、ダメ、ぶっぶーになってしまう。(人を呼ぶ計画を立てるなど、強制的なリミットがないとダメ人間w)
やってよかったダントツは、花伝所、そして編集学校の師範代。
たくさんの同期に恵まれて、刺激を受けて、松岡正剛校長やいろいろな方の話を聞けたのが、とてもとっても面白かった。
産後は、
ベビーマッサージやら、
子育て支援センターやら、
子育て親子イベントやら、
受け身になるものがとっても多いから余計ワクワクしたのだと思う。
もちろん、どれも悪くないのだけれど、サービスされるだけでは「おもろない」。
よく参加した育休JUMP会という場も、全くお客さんではなく、あなたはどう思うの?と常に問われていたから面白かったのだと思う。
やりたいけれどやれてないwリストだけれど、今見直してみると、自分の傾向が見えてきたのは発見だ。
✔︎やるべきマスト事項は単体ではモチベーションが上がらない
✔︎モチベーションは一人だと下がりやすい
うん、あるある爆
息子氏、念願の水族館。イルカ<カメ
オカン、うっかり期待してしまうの法則
子どもは元気で人生それなりに楽しんでくれればいい。
それは心から思っていることだけど、
ときどき、チラリと違う自分の顔がのぞく。
育休中は、週末や平日に、子どもに良さそうなイベントがあると連れていったものだった。
最初のつまづきは、ベビーマッサージ。
2ヶ月頃だったろうか、ニコニコするかと思いきや、終始ムッツリ、終わり頃にはぐずる始末苦笑
ま、そりゃね、
母ちゃんだって、そんな場は好きじゃないですよ。合わせてニコニコとか、趣味じゃない。
だけど、君、そういう遊びも面白そう、、じゃなかったのね。
「ベビーマッサージやり方」とかググってた自分がアホらしい。
前のめりにオイルとか買わなくてよかった。
次の挫折は、だいぶ大きくなってから。
1歳半は過ぎていたと思う。
絵本作家さんと一緒にめちゃくちゃな絵を描こうというイベントだった。
模造紙を広げるところまでは楽しそうな息子氏。
ところが、筆で書く段になると、足の裏に絵の具をつけて絵の具の感触を楽しんだり、筆であれこれ描いている子を横目に、
筆を筆洗いバケツでくるくると洗っている。
遠路はるばる電車に乗っていったのに〜〜
家でもできるじゃん〜〜(以下エコー)
結局、そのままフェードアウトし、
帰りにジュースを半分こして帰ったのが、いい思い出だったりする。
ほかにもたくさんある。
絵本の読み聞かせイベントでは興味を持たず、そこらへんウロウロしているのを楽しんでいたり、
近所の子育てセンターの親子遊びは全然楽しくなさそうだったり…苦笑
四十路オカンだもん、なんも期待しないぜ!
なんて自分でも思ってるし、そう行動してるつもりだけど、
どこかで期待してる自分がいる。
期待していないはずなのにうっかり期待してしまう法則。
これは、柴田さんいうところのこびとを発動させる場面か!?
ダメパターンの罠にひっかからないように、
失敗上等!ふりかえりマスト!
でこれからもいこうと思います。
写真は期待以上に食べられてしまうかき氷。
4ヶ月の旅路を終えて
長かったような、
一瞬だったような。
編集学校での師範代が終わろうとしている。
めっぽう面白い4ヶ月だった。
お手紙と一緒に笑い、涙し、
奥にある声に耳を深く傾けた。
こんなにも誰かのことを考え続け、先へと一緒に歩いて行きたいと願ったのは、
はじめてだった。
世界はこんなに新しく、
小さく、そして大きく、変化に満ちているのかと、
お手紙をもらうたびに、そう思ったのだった。
どんな場所にも”編集”できる可能性がある。
それをずっとずっと忘れずにいたいと思う。
諦められないものってなんだ?@8月JUMP会
今日は8月のJUMP会。
JUMP会とは→育休中の人たちが、課題本を片手に、柴田さんのツッコミを受けながら、仕事のことをああでもないこうでもないと語り、目からウロコを落とす会のこと。こんな感じで課題本を読みます。
魅力は、そこに集まる人と、頭をフル回転させながらのおしゃべり。
今月の課題図書は「性格スキル」。この本が、私的にはモヤモヤありまくる本で、いろんな部分の記述に、ほんとそうなのか?と内心突っ込んでいるのだけど。
ただ一つ、納得のところがあった。
真面目さ=「やり抜く力」=「情熱」×「粘り強さ」
「情熱」=「興味」×「目的」
心が動かなければやり抜けない。そして心が動くためにはウロウロ興味を持つことが大事。これはほんとそうだと思う。
柴田さんからの
やり抜くは長期的視点で
という指摘はなるほどだった。今100%でやり抜かなくてもいいのだ。今のリソース(自分も含めプラスマイナスどんな状況なのか)を分析して、戦略的に挑む。
そして、恭子さんのFBの投稿にあった
(育休中の人たちは)社会と関わって自分の能力を生かすということをやり抜いているってことなんじゃないだろうか、
という指摘は、、いやもうなんというか、胸があたたかくなった。
仕事を続けるか、私も迷うことがある。けど、きっと、自分の能力を生かそうとすることはずっとこれからも辞めないだろう。
JUMP会では、”真面目じゃなきゃいけないの?”という問いもあった。
年とともに自称不真面目になりつつある私は、”自分は真面目じゃないもーん”って思いながら聞いていたけど、真面目=「べき」になりやすい、の指摘に、ドキッとさせられる。「べき」傾向、クワバラクワバラ。
最後にやったのは、自分が大切にしたいものカード。
たくさんあって、選べなかったー。清潔で衛生的な環境とか、頼れる人の存在とかもあったけど、迷って捨てた。(時間もなかったし)
散らかった部屋<自分で自由に決めて行動する
が、私の優先順位なのだろうと思う。(ズボラ母がバレた。。)
ボランティアってなんなんだ
やりたいからやるのがボランティア。
求められているスキルを納期までにやってその対価をもらうのが仕事。
ってこと、なんですかねぇ。
NPOや何やらで、お金を出さずに仕事をやってほしい、というのは明らかにおかしいことだけど、
「お金をもらわなきゃ仕事をやらない」を突き詰めていくと、PTAであれ、なんであれ、専門家ではない人(それは市民といえるかもしれない)の参加を逆に拒んでいることになるんじゃないか。
それってつまらない。
損得ばかり考えてちゃ、阿波踊りだってきっと実現できてなかったと思う。
(あれは踊る阿呆だからいいのか。)
誰がなんと言おうと、組織や人の集まりって、いろいろな人がいるからこそ、まじわって、味わって、面白いことができるわけで。
踊る阿呆に見る阿呆、もひとつオマケにボランティアする阿呆。
なんちゃって。
それはきっと、かっこよくいえば、「存在の名誉」を守る戦いなのだろう。
では、何が新たな問題になるべきかといえば、むしろこれからの問題は、資本主義社会が容易に回復しえないことに注目するべきである。社会や企業がもたらす鬱屈や喪失に対して、これを回復させ、何かに“相当”させる新たな贈与価値のしくみが、そろそろ胚胎してくるべきなのだ。そこを編集するべきなのだ。
このことについては、詳しいことは述べないが、千夜千冊でもとりあげた安田登の『ワキから見る能世界』(1176夜)を参照してほしい。そこに意外なヒントがある。能のワキはシテの残念や無念を受け止め、それをはらすための役割だということがここには書いてあるのだが、いまやそういうワキの贈与感覚こそが要請されているはずなのだ。
おそらく本当の価値観の互酬性を、今日の社会はほしがっているのである。それはポイントカードでは得られない。グルナビでも得られない。価値観の相当と充当は収入だけでも得られない。
ポリネシアの「マナ」(大切にするもの)についての記述をあらかた了えて、モースはこう、書いていた。「贈与がもたらすもの、それは存在の名誉というものなのである」。
ボランティアをしてみると、このバルネラビリティが不意にやってくる。「よかれ」と決意してやったことなのに、へこたれそうになる。それはまさしく個人を不意に襲うリスクであるのだが、しかしとはいえ、そのように自分がバルネラブルになることは、かつては体験も実感もできなかったことかもしれないのである。
ここにはいったいどういうことがおこっているのだろうか。矛盾がおこったのか。無理がおこったのか。金子さんは本書の最後でこの問題の突破を試みる。自分をバルネラブルな状態におくこと、これは実は情報の動向の本質的な側面なのではないかと考えたのだ。
本書には「自発性にはパラドックスがある」という説明もある。ひらたくいえばこのパラドックスは「わりをくう」というふうにあらわれる。せっかくボランティアをしたのにという「わり」である。しかし、この「わりをくう」という直後に、しばしば事態は劇的に変貌しうるのである。自分がうけたバルネラビリティという鍵がどこかの情報の「窓」をあけ、ネットワークに空いた「席」にやってくるものを劇的に迎えるのだ。情報を運ぶ主客が入れ替わり、ネットワーク端末がぶんぶん唸って交差点になっていくのである。