「正しさ」についてのモヤモヤーあるいは、過去の自分との対話

全く知りもしない(「Siriもしない」と誤変換されたうちのパソコン。。)人が大半なのかもしれない、「なくそう!子どもの虐待プロジェクト2018」の虐待防止キャンペーンの署名の問題。

(こちらのブログ↓にわかりやすくまとまってます。)

どうもこの動きが気になってしまい、ここ数日モヤモヤした気分になっている。

 

簡単にいうと、もともとの署名キャンペーンの中にある、警察と児相との全件共有という内容について、発起人の一人がはそこまでは求めるつもりはなかった、として、発起人の他の人たちにきちんと報告や連絡や相談しなく、書き換えを行ったというものだ。

書き換えについて、色々なコメントがなされているけれど、市民を巻き込んだ活動をしているNPOと呼ばれる人たちが、感情的になったり、言葉尻をとらえる表現をしていることに、傷つき、がっかりした。

 

いや待てよ、
期待してはいけなかったのだ。そもそも。

上のブログでyoshimi_deluxeさんも書いているけれど、

自分の不安、絶望、葛藤、焦燥、無力感…といったものを「なんとかしてくれそうな」人や団体に丸投げしてはいなかっただろうか。

あの人ならなんとかしてくれる。あの波に乗れば、この不安が、問題が解決する。

そう無意識に思っていたから、この事件に「がっかり」してしまったのだと思う。NPOだって企業や他のセクターと変わらない。いいときもあれば、勘違いするときもあるのだ。

 

そう気づくと、自分の姿勢が気になってくる。

悲しい事件や憤り、正義感に心任せて、動いてしまうことがちょっと怖いな、と思う。
自分は真剣でも、その真剣はトンチンカンかもしれない。誰かを傷つけてしまうかもしれない。

とするなら、
”悲しみ”や”正しさ”でモチベートされる行動にはアラームを鳴らして。

”たのしさ”や”あたたかさ”で動いた心で踏み出す一歩を気にするのがいいんじゃないか。

ちっぽけな自分は、仕事も家庭も周りの小さな範囲に手を伸ばすのが精一杯だけど、小さくちいさく、できることを始めたい。

 

セカイは批評に満ちている。みんなで一緒、じゃなくてもいいと思う。(このブログも素敵)