ボランティアってなんなんだ
やりたいからやるのがボランティア。
求められているスキルを納期までにやってその対価をもらうのが仕事。
ってこと、なんですかねぇ。
NPOや何やらで、お金を出さずに仕事をやってほしい、というのは明らかにおかしいことだけど、
「お金をもらわなきゃ仕事をやらない」を突き詰めていくと、PTAであれ、なんであれ、専門家ではない人(それは市民といえるかもしれない)の参加を逆に拒んでいることになるんじゃないか。
それってつまらない。
損得ばかり考えてちゃ、阿波踊りだってきっと実現できてなかったと思う。
(あれは踊る阿呆だからいいのか。)
誰がなんと言おうと、組織や人の集まりって、いろいろな人がいるからこそ、まじわって、味わって、面白いことができるわけで。
踊る阿呆に見る阿呆、もひとつオマケにボランティアする阿呆。
なんちゃって。
それはきっと、かっこよくいえば、「存在の名誉」を守る戦いなのだろう。
では、何が新たな問題になるべきかといえば、むしろこれからの問題は、資本主義社会が容易に回復しえないことに注目するべきである。社会や企業がもたらす鬱屈や喪失に対して、これを回復させ、何かに“相当”させる新たな贈与価値のしくみが、そろそろ胚胎してくるべきなのだ。そこを編集するべきなのだ。
このことについては、詳しいことは述べないが、千夜千冊でもとりあげた安田登の『ワキから見る能世界』(1176夜)を参照してほしい。そこに意外なヒントがある。能のワキはシテの残念や無念を受け止め、それをはらすための役割だということがここには書いてあるのだが、いまやそういうワキの贈与感覚こそが要請されているはずなのだ。
おそらく本当の価値観の互酬性を、今日の社会はほしがっているのである。それはポイントカードでは得られない。グルナビでも得られない。価値観の相当と充当は収入だけでも得られない。
ポリネシアの「マナ」(大切にするもの)についての記述をあらかた了えて、モースはこう、書いていた。「贈与がもたらすもの、それは存在の名誉というものなのである」。
ボランティアをしてみると、このバルネラビリティが不意にやってくる。「よかれ」と決意してやったことなのに、へこたれそうになる。それはまさしく個人を不意に襲うリスクであるのだが、しかしとはいえ、そのように自分がバルネラブルになることは、かつては体験も実感もできなかったことかもしれないのである。
ここにはいったいどういうことがおこっているのだろうか。矛盾がおこったのか。無理がおこったのか。金子さんは本書の最後でこの問題の突破を試みる。自分をバルネラブルな状態におくこと、これは実は情報の動向の本質的な側面なのではないかと考えたのだ。
本書には「自発性にはパラドックスがある」という説明もある。ひらたくいえばこのパラドックスは「わりをくう」というふうにあらわれる。せっかくボランティアをしたのにという「わり」である。しかし、この「わりをくう」という直後に、しばしば事態は劇的に変貌しうるのである。自分がうけたバルネラビリティという鍵がどこかの情報の「窓」をあけ、ネットワークに空いた「席」にやってくるものを劇的に迎えるのだ。情報を運ぶ主客が入れ替わり、ネットワーク端末がぶんぶん唸って交差点になっていくのである。